『
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない』
という言葉があり、こんなに的確な世界認識があるのかと、
心底驚いた。
作者の村上春樹は、これでもかこれでもかと文章を書き、
書いても書いても書いても書いても・・・、どこまでも満足しない。
「満足しない」っていうのは、「不満がある」ということよりかは、
自分に対する正しい理解を周りに対して求めているが、
「自分」をどうしたらそのまま正確に伝えられるかわからず、
試行錯誤するがなかなかできず、もどかしく、時に苦しい、
という感じかな。
物事にも自分自身にも少しも妥協できず、いつもせっぱ詰まっている感じの
登場人物たちに、私の人生がとても癒される。
本当はみんな、ものすごいものすごい妥協して生きているのだと思うのね。
少なくとも、私は妥協して生きている。
「妥協して」という言葉を使うと誤解されそうだけど、「仮の姿」とまでは
言わないけれど、「とりあえずこんなものかな」という感じで、
朝起きてご飯食べて、会社行って、仕事して、お昼食べて、電車に乗って
帰ってきて、たまには今日みたいにバイオリンに行って、本読んで、
友達と喋って、運がいいと誰かとデートして、という日々を過ごす。
そうしないことの選択肢をよく吟味することって、なかなかできないのです。
例えば、そういうことで思い悩む「モラトリアムな時期」というのが
一般的には「一時的に」あるのだとされるが、そんなものは一時的で
解決されるような問題ではないと私は思う。
確かに私も人生全部生きたわけではないので、これも正確な見解ではない
かもしれないけど、たぶん、こういうのって、一生ついてまわる予感がする。
ただ、母親になったり、父親になったり、会社でエライ人になったり、
親戚の孤児を預かることになっちゃったりして、自分に役割が与えられると、
「効率」が一番大事になり、「行動の選択肢」が、自分自身の心や頭から
出たものではなくても、世間に対しても自分自身に対しても認められるから、
楽になるだけのことではないか。
もしかしたら私は、自分の瞬発力のなさ、判断能力の低さ、理解力の低さ、
その他沢山の他人と比較して日々感じる能力のなさを、何かに託けたい
だけかもしれないけど。
しれないけど、くどくど回りくどいくらいに、一生懸命細かく細かく、
自分の伝えたいことを執拗に言葉にしようとする登場人物の「すみれ」や
「ぼく」には大変心癒された。
私は、本当は、もっともっと他人の話をいつも聴きたいと思っているし、
私の疑問に思っていることを、私が納得がいくまで他人に答えてもらいたい
と思っている。
私は本当に我侭だ
posted by レミ at 01:44| 東京

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